頑張らない!でも諦めない!必死にならずにええかげん

自分の子供が他人に危害を加えた時、責任取る覚悟ありますか?【子どもへの体罰、大人の過半数が容認】反対論について

      2018/04/07

ニュースで報じられた「子どもへの体罰、大人の過半数が容認」という調査結果。
その調査結果についてとやかく言うつもりもない。
過半数だから民意として有効だと言うつもりもないし、元々暴力に対しては反対の立場だ。
ただ躾の上で怪我をさせない範囲でのゲンコツや平手打ちと言った教育手法は、
有効だと思っているし、教育現場でも排除すべきではないと思う立場である前提で述べさせていただきたい。

ここでは、他人に怪我を負わせるような物理的接触を「暴力」と呼ぶ。
また躾上必要なゲンコツや平手打ちなどの軽微な物理的接触を「制裁」と呼ぶことにする。
「制裁」は適当ではないが「暴力」と「非暴力」の間に適度な言葉が存在しない為。

記事自体は長くなるが、当サイトはページ遷移を導入していないので、ご了承願いたい。

筆者の前提条件と思想

まず最初にどのような思想をもって書いているのかという前提条件を提示する。

  • 男性
  • 婚姻済、2児父(未就学)、ペットアリ。双方両親離婚歴なし。
  • 私は父から暴力は受けていないが、教育上制裁は受けた経験はある。
  • 中学では記憶にないが高校では、教育上の制裁は受けた経験がある。
  • 父、教師共に制裁を受けたことに対して、憎悪はない。むしろ感謝している。
  • 自分以外の人に怪我を負わせるような暴力に対してはいかなるものも許容していない。
  • 怪我をさせない範囲で躾上必要なゲンコツや平手打ちは教育上必要だと思っている。
  • 学校環境においても躾上の制裁は必要だと思っている。
  • 死刑に関しては容認しているが「過失無き犯罪に限定」するべきだと思う。※細部は後述
  • 武力保持を明文化することに対しての憲法改正は賛成。
  • 憲法9条に関しては崇高ではあると思っているが、無力だと思っている。
  • 自衛隊明記は必要。従事してくれている隊員達に明確な立場を提示し、尊敬の意を表するべき。
  • 特定の宗派に属することもなく、原則は無宗教(初詣には行くが、葬式は不要という立ち位置)
  • 特定の政治政党の支持はない。どちらかと言えば反自民ではないが、反安倍総理ではあり。
    野党は公明・維新・共産以外あってもなくてもいい。投票先は都度変化する。

 

本記事は、以下の調査結果に対して自分が感じていることを書きたい。
子どもへの体罰、大人の過半数が容認:朝日新聞デジタル

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過去に受けてきた教育環境

自分が高校の頃、暴力は振るわないものの、
家の壁に穴をあけてしまうような、ぶつけ先の分からない憤りは感じてきた。

丁度、大学受験を控えた頃で、彼女も居たが、
彼女の相手をする時間と、勉強をする時間の配分に親から注意を受けた時だったかなと思う。

今となってはどうでもいいつまらない事だと思う。

 

高校では友人に恵まれて自分が暴力的なグレたような素行はなかったが、
だからと言って、誰かが無視やいじめ風なことをしていても、
止めるような崇高な行いをするタイプでもなかった。

典型的な自分達が楽しく毎日が送れればそれでいいという学生だったし、
だからと言って、誰かターゲットを絞って、イジメるほど暇でもないという感じだったと思う。

自分はイジメや暴力を受けてきたという背景は持っていないが、
高校生という不安定な頃には、

教師による制裁や、制裁を受けている姿を皆の前で晒されるという羞恥心は、
一定の制約になって居たと思う。

また、そうされない為のアプローチを取るという振る舞いをしてきたと思う。

結果として、授業中に授業の邪魔になるような行為は慎んだと思うし、
その教師のテストで赤点だけは取らないようにと頑張ったようにも思う。

 

こういう背景で育ち、
今、親になった自分が感じるのは以下の様なことだ。

育児における躾と親の責任

最初にまず一番言いたい事を書く。

この記事の範囲内でいう「制裁」も「暴力」であり、いかなる暴力にも反対だとする人に問いたい。

Q. 自分の子がこれから先もしグレて(暴力的になり)、他人や親である自分に対してまで、暴力をふるう様な成長過程を辿った場合に、逃げずに子供と対峙し暴力を止めさせる努力をしたり、極端な話「刺し違えて子に殺される」ことになっても他人への暴力を止める覚悟はありますか?

この一点だ。

 

 

子供が幼児・小児の頃はまだいい。

口で言おうが、制裁を使おうが、他人に対して危害を加える恐れもまだ少ないし、
親である自分に対して、矛先が向く事も少ない。

しかし、子が中学、高校などになって、肉体的に成長し体格と腕力を持った時に、
どのような子供として成長しているか?は未知数だ。

小さいときから「暴力はいけないよ」と教え続け、
それを素直に受けて育ち、思春期にも「暴力は使わない」となっていればいいが、
不安定な思春期に一度くらいは「むかつく、あいつ殺したい」くらいの
感情はこみあげてくる事くらいはあると思う。

多くの場合、行動には移さないという感情だけの問題で処理をする訳なのだけども、
稀に実際に行動してしまったり、イジメによる集団的な暴力行動にでる人も出てくる。

 

自分の子が、どう育つか?は全く見えないし、予想も出来ない。

もし、我が子がある時期、暴力的な状態になった時、
非制裁を唱える人達は、本当に逃げずに子供と向き合えるんですか?と思う。

子に暴力を受けて抑圧されるような環境に置かれてしまった時、
「自分だけは暴力は振るわない」と宗教の教えのように心で唱え続けるだけで、

他人への暴力を止めることも、
自分への暴力を止めさせることもできなくなるのではないか?

そう思う。

結局、見てみぬふりをして、
子供に殴られないように、気を遣い怯えながら食事と金を渡すような関係にならないか?と思う。

 

私はもし自分の子が他人にイジメや暴力をふるう様な時期がもし直面するなら、

殴り合って刺し殺されるかもしれないリスクを負ってでも、我が子を止める。

それが責任だと思う。

その覚悟を持った上で、一定の「制裁」は必要だと言っている。

耳障りのいい言葉に傾いてる人たちは、

そこまで考えて覚悟してるの? 

そこを聞いてみたい。

 

子供に虐待をして「暴力」をふるう事は断じて反対するが、

子の間違いやわがままを律する目的でする「制裁」は、
親子の上下関係をしっかり分からせる為にも必要なものだと私は思う。

「犬や猫じゃないんだから・・・」と言う人もいるが、
私は「非制裁論者には犬猫の躾もろくにできない」そう思っているし、現実にそれを実感している。

 

「制裁」に踏み切るまでのプロセス

「制裁を容認する」という立場を持っていても、最初から常に「制裁」を行うわけではない。

父として口を出さずに、母に任せる部分は多くある。

母は当然女性であり、また保育園の保育士も多くは女性である。

 

女性ほど暴力を嫌う傾向が強く「口で言えばわかる」なんてことを簡単に言うが、
私が見ている限り、女性が口で言ってちゃんと子供が改善されるケースは稀だと思う。

何度も同じことを子供はしている。

 

最近は私が子供に対して言えば言う事は聞くが、母が言っても全く効果がないケースが増えている。

よくある「貴方(父)からもビシッと言ってよ」という状況だ。

 

ではなぜ、私が言えばちゃんと子供がその行為を止めるのか?

声のトーンが男性であることから威圧的である部分もあるだろう。

ただそれよりも「この人の言う事を聞かないでいると、ゲンコツが飛んでくる」

子供はそう認識している。(ように見える)

波平さんの世界のようなもんだ。バカモーン!

 

母が叱る、母が叱る、母が叱る。

父が叱る。

父がゲンコツを投下。

 

プロセスは当然ながら、口で言った後に「制裁」がある。

そして、改善したら「ちゃんと褒める」「頭も撫でる」

 

「恐怖感」と「達成感」

「あめ」と「むち」

何でもいいが、口で怒られても実害がないのであれば、
それは子供にとっては「害がなかったという成功体験」にしかならない。

「害があった」という「失敗体験」からしか学ぶことはできないし、改善する事はできない。

まぁ場合によっては女性的な「ヒステリックな怒り方」で捲し立てても、
失敗体験としては効果があるかもしれない。

それは確かに暴力は使っていないけども、
精神的には長く悪影響を与えそうだから、暴力と変わらないように思う。

 

子供はゲンコツを投下したところで、5分後にはテレビを見てケラケラ笑っている。

これが大切なことで「後に残らない制裁」であることが大切なことだ。

 

父的にはトラウマになって二度とやらないでいてくれた方が遥かに楽なのだけども、
自分が叱って、ゲンコツ投下程度で、
トラウマになってくれることは、これまで無いようだ。

 

他の意見によって自分の行動が変わるには上下関係が必要

人が誰かの言う事に同意して、自らの行動を決定するプロセスには、
必ず、上下関係が存在する。

社長、上司、教師、親。

少しズレた位置には、教祖なんてのもあるかもしれない(自分はないが)

「人の言う事を聞き、行動する」それは、
少なくとも自分より上であることを認識していないと成り立たない行動だと思う。

 

自分がやりたい事を抑え、我慢して、その人の言う事を聞く。

人は何かしらのメリットがなければ行動しないことからしても、
「言う事を聞いて従う」このことに、自身のメリットがあるから「従う」のだと思う。

そのメリットはなにか?

 

従う事のメリットが必ず必要になる

継続雇用、評価の向上など何かしらの社会的恩恵を授受する関係であれば、
そうしたメリットは分かりやすく見えやすい。教師であれば、内申評価は一つだと思う。

社長、上司、教師などの他人が、組織に属するメンバーの統制を取る場合、
「評価制度」によって指揮統制が取れると考えるかもしれない。

ただ、これは時として無力なもので、これが問題になる。

  • もうこの会社辞めるつもりなんで、関係ないです。
  • 進学するつもりはないので、内申点とか関係ないです。

 

そうなると、上下関係は既に崩壊していることになる。

上の言う事を聞く必要が全くない。

 

さて、そういう「関係ない」と上を上と思っていない人に、
「何かの言う事を聞かせよう」とした場合、どんな手が打てるだろうか?

私は思いつかない。

 

教育者は僧侶ではない

教育者が僧侶のように崇拝されるような存在であれば、
生徒をコントロールすることも「教えに従って君の行いは良くない」と、
「はい先生、分かりました。精進します」となるかもしれないが、

現実、教師は単なる職業で、
これといって教え方が突出して上手で「この先生の教えに従えば希望校に行ける」という教師は稀だ。

むしろそれだけの能力があるなら、学校教師は選択しないだろうし、
予備校など実力で評価され報酬が得られる職に就くはずだろう。

教師が無条件で尊敬される対象ではない

この事は、非常に重大な現実で、
誰も尊敬していない人の言う事は聞かないし、
もっと言えば、親でさえ、担任教師に噛みつく時代なわけだ。

親が教師を尊敬せず「あの先生は~」と子供の前で発言していたとしたら、
当然子供も「こいつの言う事を聞く必要はない」と立ち振る舞うようにもなるだろう。

家庭内で子供に対して「お父さんはダメだから・・・」と愚痴れば、
父の言う事を聞かなくなる子供になるのと全く同じ構図だ。

もし学校の先生や保育士などに否定的なことを、
子供の前でやっているようなら、

そもそも自分が学級崩壊に加担していると認識する必要がある。

 

少なくとも親が担任に対して尊敬の念を持っていないならば、
その教師に対して、子の教育の一端を委任することは誤りだと言う事になる。

保護者に下に見られ、生徒からも下に見られ、
教師には生徒を統制する術がなくなっている現状で、

さらに「制裁」する行為さえも、奪われてしまっているのは、
教師にその「仕事を辞めろ」と言っているに等しい行為だと思う。

私は教師に一定の「制裁」を認める必要があると思っているのは、
必ずしも言葉ですべてが伝わるわけではないし、

「恐怖」から生まれる上下関係は時と場合において、
必要になることもあると思うからだ。

「怒られない」「叩かれない」これも一つのメリットになる。

 

逆に教師は「叩く」ことによって、反撃を受けるリスクは常に伴う。
教師であるから反撃されない訳ではないし、

後から体育館裏に呼ばれて、ボコボコにされる可能性だってある。
少なくとも、反撃させないだけの腕力や体格、威圧感が伴って有効な部分でもある。

 

武力保持に対する憲法改正と根本は同じ

学校教育の現場と国防は本質は大して変わらない。

他国に対して言う事を聞かせるには同じくメリットが必要になる。

また自国(日本)に対しての侵略が、その国にとってのメリットであるなら、
チャンスがあれば侵略してくるだろう。

それを止めるには「絶対的に勝てない相手」なのか、
自国にも甚大な被害が出て「メリットが被害を上回る」と行動を前に分からせる必要がある。

経済的な関係性で、互助関係だと言うのは自由だが、
侵略して制圧すれば、互助ではなくなって、
すべてが自国の利益として享受することができるようになる。

互助より、占領する方がはっきりいって、メリットは大きい。

 

決して戦争は容認しないし、反対だが、
絶対的に他を圧倒するだけの使わない武力を持つことは必要だと思う。

もしくは全世界で中立でどこにも属さない絶対的な武力を保持した国家が、
全世界を掌握していればいいが、それは「ラピュタ国」くらいの絵に描いたものだろう。
米のような自国最優先などと言っている国では、世界掌握はできない。

自国を守る

自分を守る

本質は変わらないし、何らかの外的攻撃を受けたら、
それを止めさせるだけの「メリット」を提示できなければ、止めさせることはできない。

そのメリットに「これ以上やると逆に占領(制圧)される」も含まれているし、
「返り討ちに遭う」なら未然に防げることになる。

 

教師の指示に背いて自由な行動をすれば「制裁を受ける」
これも立派な抑止力であり「制裁を受けたくない」は、
生徒にとって分かりやすいメリットだと思う。

「痛い思い、恥ずかしい思いはしたくない」

これは多くの人にとって、共通する感情だろうし、
言い過ぎではあるが「掌握する為の万能な効果も持っている」

過度にならないという教師側の節度は絶対に必要ではあるけれども、
一律ですべてを「暴力」としてしまうのは、
「滅びろ」と言っているに等しい言葉の暴力でもあると思う。

 

敗戦後に作られた日本国憲法は、それをこの国に課してきた酷なものだということで、
米国の傘下で守られていたから、この絵に描いたような平和が保たれただけで、

米国と他国のパワーバランスが崩れれば無力でしかない。

憲法があるからと「武力を持たない」と、
なんとなくのらりくらりと自衛隊を運営してきた代償は、
既に取り返しのつかない差がついてしまっている。

「先制攻撃・侵略はしません。」

このくらいが新しい憲法として適正だと思う。

 

一歩わが国に踏み込めば、とことん反撃しますよ。と。

「反撃が怖い」これが抑止力。

「制裁されたくない」これも抑止力。

 

人間は元々他を排除する性質を持っている

元々人間はその時々で「仲間(同胞?)」と認識する範囲を変えながら、
他を排除する行動を常に取ってきている。

元々「他を排除していかにして自分の遺伝子を残すか?」が目的なのだから当然で、
自分の遺伝子を残すために、自分を守ったり、
共闘してくれる他者を「仲間」であり「同胞」と解釈する。

それは国家単位になったり、町内会単位になったり、家族単位だったり、孤高な自分だったりする。

「仲間」の範囲は常に変化していて、
言い換えれば「敵」によって、何を仲間にするかは変わる。

他国が敵なら、自国が仲間の単位になりうるだろうし、
自治会に入ってきた新参者が気に喰わなければ、自治会全体が仲間になるだろう。

自分たちを脅かす相手によって、
人は組織単位を変化させるし、攻撃手法も変わる。

話はそれるが、3.11東日本のフクイチ事故の2日後に、
いつものイオンに行ったとき、米や食料を抱えて買い漁る客を見た時、
イナゴの大群にしか見えなかったし、

有事の様な場合は家族以外はすべてが敵なんだなと認識した。

 

綺麗ごとは耳障りがいいし、SNSでもそうした言葉しか見たくない人が多い。

「体罰反対!」と言うのは簡単だし、SNSでいいね!やRTするのも自由だけども、

じゃ、いざ自分の子がグレた時であっても、
君は絶対に逃げずに非暴力で解決するんだね?

そう聞きたい。

というか、お手並みを拝見したい。

 

それができるのであれば、今の北の問題もこんなに長引いていない。

グレたカリアゲ君が自分の同胞を引っ提げて、国益重視で安全を担保しようとしている。

俺に付いてきていれば、他国からちゃんと守ってやるから支持しろ。

自分にはそう見える。

 

そして、オラオラ!と武器をチラつかせてはいるカリアゲ君だけども、

少なくともその武器で「誰も傷つけていない」という事実はちゃんと理解しておく必要がある。

彼は「ゲンコツ」さえまだ使っていない。
※飢餓に苦しむ国民がーという点はこの場合除く。他国に対して危害を加えたか?に限定。

 

「体罰反対!」の一つの答えにはなるのかもしれないね。
この強かな外交アプローチは。

別にカリアゲ君と言っているように、彼を容認はしてないし、
北を支持しているわけでもない。

 

昨今の暴力反対!ヘイト反対!と簡単に言うのは好き勝手で無責任だと思う。

それを本当に現実に移すなら、
北のように武力をデモンストレーションして、

「こいつらに攻め込んだら、意外とやばいかもな?」

そう思わせるしかないって現実を今私たちは見せられてる。

教師も生徒の前で、ボクシングのスパーリングでも見せて、
「強いオレ」を定期的にデモンストレーションして、抑止力にしたらいいかもね。

それなら「体罰」すら使わずに「こいつ怒らせたら怖い」と掌握できるかもしれない。

 

死刑容認と適用範囲について

最後はどうでもいいことかもしれないが、
他を排除するって人間の性質として、極論が死刑だと思う。

他人を傷つけ、保証できないような重大な行いをした人に、
何かしらの責任を取らせるという方法。

 

私は死刑は容認しているし、むしろ場合によってはもっと増やすべきだと思ってる。

場合によってはというのは、

「過失ではなく人を殺めた場合」

 

交通事故で人を、、とか「殺める」ことが目的ではなかった場合には、
ちゃんと罪として償い、背負って生きていけばいいと思う。
本人もそれを望んでいたわけではないだろうから。

この場合の死刑に関しては私は適用すべきではないと思うし、
現行でも適用されない場合が多いだろう。

 

言いたいのは、無差別殺人や殺意を持って殺めるという行為にでたタイプ。

大量殺人なら現行でも死刑が選択されるだろうけど、人数の問題じゃない。

 

性的な目的で一人を殺めた場合でも、自己の満足で誰かを殺めるような場合は、

同じだけの行為をその本人も受けるべきだと思う。

苦しませただけ、自分も苦しんで償うべきだと思うし、
再び世に放つようなことがあってはいけないと思う。

改心に期待してもしかたがない。

過失無く人を殺めたことが現場の状況から、本人の供述から分かるなら、
ベルトコンベア式に原則死刑として処理する仕組みは必要だと思う。

それを止める必要があるのかを、裁判所が判断する程度でいいと思う。

 

こういうことを言うと「殺したがるやつ」なんて言われるかもしれないが、

「殺された」という現実を、未処理な状態で加害者保護を語るなと思う。

 

「殺された」現実に対して、どう責任を取るのか?

それが解決してから加害者の保護だの改心だのを語るべきで、
責任を取ることなどできないのが、殺人なわけだ。

過失無き殺人は、保護するべきではない。

 

さいごに

話はそれたけど、

暴力や体罰を無条件に反対とする意見は、9条を崇拝するような行為で、

相手(周囲・他国)が善人である前提でしか成り立たない。

相手が絶対に自分に危害を加えてこない、その前提条件があれば確かに成り立つ。

 

しかし人間は他を排除するし、他の領域、利益を侵害し、
自分達が生き残る為の最善の策を取る。

その為には、仲間であっても、すぐ後には仲間ではなくなって消されることもあるだろう。

 

体罰という「制裁」は行使しなくて済むなら、行使すべきではないと思う。

しかし「絶対に行使しません」と言わせようとする昨今の風潮や、
「行使」=「暴力」と、事の実態や背景を見る事、考慮することなく、
一律処理するのは誤りだと思う。

 

いつだったかか教師が暴力事件でやり玉に上げられて逮捕された(?)時に、
実際殴られた側の生徒が、その教師を擁護する意見を言っているのを見かけた記憶がある。

自分が悪かったんだと。

殴られても止めてくれた、ちゃんと自分のことを見て叱ってくれた。

そう思われるような人間関係があって、体罰や制裁が成り立つのだと思う。

 

今は、その個人間の関係性という部分もすべて面倒だからと無視して、
一律、すべてを暴力として処理することに非常に違和感を感じる。

 

極端な話、自分が本当に精神的に苦痛なら、
今の時代、いくらでも検索で情報が得られるのだから、

オレは学生でも、担任を民事で訴えるけどね。さっさと。
※未成年は保護者に提訴してもらう必要があるわけだけども。

学校や教育委員会があとから慌てても、しらんがな。
本当に憎悪を感じたなら、もっと法廷で争えばいいと思うよ。

 

いじめもしかり。
相手の住所氏名が分かっているなら、保護者を法廷に引きずり出せばいい。

それも結構な抑止力になると思うな。

保護者が自分の子供がいじめをしていて訴えられ、世に晒される。
社会的に結構痛いよね。

 

別に弁護士立てなくても訴えて晒して、取り下げてもいいんじゃない?

 


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